ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:愛媛編 59番霊場
第五十九番札所 国分寺に向かう大凡7km。

第五十九番札所 金光山 国分寺 最勝院

数段の石段を上り正面の石柱門を入ると境内である。正面に本堂が建つ。本堂の右側に大師堂がある。 桜満開!!


本 堂
本堂は寛政元年(1789)に再建。伝行基菩薩作の本尊・薬師如来像は県指定文化財。
左側に手水場があり右側に太子堂。

手 水 場

太 子 堂

太 子 堂 宝 珠


太 子 堂 内 陣
石柱門の右手には薬師如来の薬壺、握手修行大師像がある。


修 業 大 師 と 薬 壺

握手しながら修業大師に願い事

左手を病気の場所右手で薬壺を撫でると薬効有りとのこと


鐘 楼 堂

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第60番札所 横峰寺に向かう・・・・・・・合掌 4月5日午前12時40分
『略縁起』
聖武天皇の勅願により、国家安穏・五穀豊穣・万民豊楽を祈願して一国に一寺建立された国分寺の1つ。天平13年(741年)に行基が開創、七堂伽藍を備えて他の国分寺に比べ豪壮な巨刹であったといわれる。第三世住職智法大師のときに弘法大師が留錫し、五大尊の絵像を描き残した。★大師十大弟子の1人でかつて高岳親王であった真如も2年間滞留し、法華一部を染筆した。その後天慶2年(939年)の藤原純友の乱で堂宇は焼失。国主の援助を受けて復興したが、元暦元年(1184年)の源平合戦で再び焼失する。後に再興したが、貞治3年(1364年)には讃岐の細川右馬頭頼之が侵入し、またも消失する。さらに天正12年(1584年)に、長宗我部元親と伊予国守河野通直の戦の兵火でまたも堂宇が消失。この時は支援者である河野氏が敗れたため復興は叶わず、茅葺きの小堂が建てられただけであったといわれる。現在の本堂は、寛政元年(1789年)に第43代住職の恵光上人が金堂として建立し、その後諸堂が再建された。
★釈尊の十大弟子に倣ってか空海の十大弟子も言われており、人名に異論もあるが・真雅(801~879年)・智泉(789~825年)・真済(800~860年)・実慧(786~847年)・★真如(~862年)・泰範(778~837年)・道雄(~851年)・杲隣(767~837年)・円明(~851年)・忠延(~837年)・真然(804~891年)が言われている。(弘法大師 空海‐古寺散策より)
★平城天皇の第3子、高岳(たかおか)親王。即位とともに皇太子となったが、810年(弘仁1)の薬子(くすこ)の変に巻き込まれて廃位され、東大寺で出家して真如と号した。のち空海の門に入り、各地で修行する。当寺でも2年滞留。861年(貞観3年)唐に渡りのち天竺に向かい雲南を経由と伝えられるが定かではなく、虎に襲われ死亡との説もあるが定かではない。
★ 本尊: 薬師瑠璃光如来 (伝 行基菩薩作) 開基: 行基菩薩
★ 本尊の真言: おん、こんころ、せんだりまとぅぎ、そわか
『番外編:国の史跡』 伊予国分寺塔跡:現国分寺境内の東方150mの処にある。大正10(1921)3.3指定。管理団体は今治市(大正11.5.23)。東塔跡とみられる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史蹟とされ礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60mほどである。


◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))翻訳・村上 護) (参考資料として)

全国にある国分寺の一つだ。今は茅葺きの小さな堂となっている。衰えぶりに心が痛む。昔の綸旨や院宣が数通残っている。官立の国分寺であるから、当然のことだ。足利尊氏の時代までは、それなりに栄えていたと聞いている。尊氏の発した御教書が残っている。
本尊は薬師如来像。国史に書かれている所に拠ると、聖武天皇によって諸国分寺に作り置かれた仏は、高さ一丈六尺の釈迦如来と二菩薩像だ。しかし、この寺の本尊は高さ四尺の薬師如来像である。だいたいにおいて、諸国分寺で高さ一丈六尺の釈迦如来像を本尊としている所は稀である。特に、薬師如来像が多い。当初から、薬師如来を本尊とする所があったのだろう。★新田義助の墓が、一町東に建っている。
★ 新田義助;南朝の忠臣 脇屋義助(新田義貞の弟)のことではないかな?
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