ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:愛媛編 64番霊場
半年後の10月9日 第六十四番札所 石鉄山から4度目の挑戦。
此処のところ数年年賀状に旭日の写真を入れる事にしており来年は瀬戸中央自動車での旭日をと思い立ち午前2時に家を発ち近畿自動車道→中国自動車道→山陽自動車道→倉敷インターから瀬戸中央自動車道(瀬戸大橋)に乗り与島PAで降りる、残念ながら大曇り。PAの係りの人の話で『今日は旭日は無理でしょう』との事、一服の後前神寺に向かう。到着AM7:00チョッと前。

第六十四番札所 石鉄山 前神寺 金色院



惣 門 と 門 柱
惣門を守るかの様に「狛犬」が鎮座、前神寺が神仏混合の歴史を強く残していることが伺える。
惣門をくぐって参道を進むと右手に手水場・鐘楼と忠魂碑が左手に庫裏・納経所がある。

手 水 場


鐘 楼

忠 魂 碑
手水場で身を清め先ず本堂に向かう。

本 堂
1972年(昭和47年)に再建された本堂。入母屋造で屋根は青い銅板葺き。本尊は役行者小角作と伝わる阿弥陀如来。



三つ葉葵の紋章:江戸時代の西条藩主 松平氏が祈願寺として東照宮(徳川家康)を祀り寺紋である 三つ葉葵紋が許された。
本堂のわきの階段を上って行くと権現堂です。本堂よりも高い位置に権現堂が祀られている。

権 現 堂 への石段

石 鉄 大 権 現 堂
奉納提灯は丸に石の文字と葵の紋、天皇家とのつながりのほかにも徳川幕府の庇護も受けていた。

権 現 堂 内 陣

権 現 堂 扁 額
権現とは: 仏・菩薩(ぼさつ)が人々を救うため、仮の姿をとって現れた日本の神。神仏混合。
本堂の手前右側に薬師堂・護摩堂がある。


薬 師 堂

護 摩 堂
石段を少し下ると参道の右側に・・・・・・・

十 三 仏

お 滝 不 動 明 王 像

お滝不動:白い○点は一円玉。1円玉を投入し、見事にくっつくとご利益があると言われている。

金 毘 羅 大 権 現

一枚岩に刻まれた 修業大師
参道左側には太子堂。

太 子 堂


太 子 堂 宝 珠

太 子 堂 前 境 内

善 識 上 人 像と善 堯 上 人 像

水 子 地 蔵 尊
お参りを終わり納経所へ・・・・・・・・

納 経 所

御 朱 印
無事参詣を終えて第65番札所 三角寺に向かう・・・・・・・合掌 10月9日午前7時30分
『略縁起』
奈良時代初期に、役行者小角が開基したと伝えられる。西日本最高峰、★日本七霊山の1つ石鎚山で修行中の役行者の前に、蔵王権現となって現れた釈迦如来と前神寺本尊の阿弥陀如来を祀ったのが始まり。後に★桓武天皇が勅使を送り、病気回復を当山に祈願した。無事平癒したためその霊験をたたえ、七堂伽藍を建立し金色院前神寺と寺号を決めた。以来皇室との縁が深く、文徳天皇をはじめ高倉帝、後鳥羽帝、順徳帝、後醍醐帝など歴代天皇が帰依して仏像や経巻を奉納し、たびたび堂宇を造修したと伝えられる。弘法大師も登山して求岡持法を修し、霊場に定めた。中世には領主河野氏、江戸時代には西条藩主松平氏の尊信と保護を受けて栄えた。松平氏は東照宮を祀り、三葉葵の寺紋を許したとされる。明治の神仏分離で寺は現在地に移り、お宮は石鎚神社となり現在も並んで祀られている。慶長年間に建てられた山頂近くの成就には前神寺の出張所があり、こちらを奥前神寺、ふもとの本寺を里前神寺と称する。昭和22年には、真言宗石鉄派の総本山として独立した。本堂は火災のため焼失、昭和47年に再建された。
★日本七霊山:富士山(静岡県、山梨県)、立山(富山県)、白山(石川県、岐阜県)、大峰山(奈良県)釈迦ヶ岳(奈良県)、大山(鳥取県)、石鎚山(愛媛県)
★桓武天皇:天平9年(737年~806年)、日本の第50代天皇。在位:781年~806年。
高倉帝(80代)(安徳天皇、後鳥羽天皇らの父)、後鳥羽帝(82代)、順徳帝(84代)、後醍醐帝(96代)
★ 本尊:阿弥陀如来(伝 役の行者作) ★開基:役の行者小角
★ 本尊の真言:おん、あみりた、ていせい、からうん
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護) (参考資料として)

新居郡氷見村にある。石土山には滅多に参詣できないので、この寺から拝むことになっている。石鉄山奥前神寺を金色院と号す。本堂・護摩堂などが軒を連ね、中心となる神社は釣殿・拝殿が立派に整えられている。伴社も多い。大和国大峯、伯耆国大山と同様に、役行者が霊験を感じて籠もった場所だ。他の二山と同じく、蔵王権現が示現した霊地である。中でもここは、役行者が最初に苦行した場所だと伝えられている。山頂に登るには、三日を要する。春と冬は雪が積もり氷が柱となって、道を通れない。六月一日から三日間だけ登ることが許される。これは富士山と同じだ。最初の二里は夜中に松明を灯し、真言または阿弥陀の名号を唱えながら登る。その後は、精神を集中させ息を呑み、刺々しい岩を踏みしめ登っていく。道が途切れ、鎖を伝って行く所が五つある。一の坂、第二・表白坂、第三・禅師が峯、第四・大窪の森、第五・せりわりが嶽。いずれも横に鎖を掛けている。第一の鎖は八十六尋、第二が三十三尋、第三が三十六尋。これから先は都率の内院と呼ばれ、どのような場所かを人に教えてはならない。登頂に成功することを、禅定という。山の中には変わった形の木や珍しい草が生い茂り、奇岩などには総て神や仏が宿っているという。山頂に不老池がある。
本社から東南に、九層の石塔がある。自然の造形らしい。高さは二十余丈あり、四方の側面は各六七歩、中には大日如来がいる。空海が護摩を修した場所だという。ここから三町ばかり離れた岩屋は、仙人が開いた。本尊として薬師如来像を安置している。
四国最大級の山で【現代に至るまで剣山が最高峰だと信じられていたが新たな測量の結果、石鎚山が最高であると確認された】、頂から見れば、諸々の山を皆、見下ろせる。独り立ち、肩を並べる山はない。紅色の雲が絶えず湧き、陶然とした心持ちになる。特殊な飛行具がなくても雲海に入っている。そのような場所が、まさに、ここだ。この寺も、横峯寺と縁起を同じくする。石仙の話は、横峯寺の部分で書いたので、ここでは語らない。
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