ひげ爺の独り言 放談 小噺  『山陰海岸国立公園』の ご近所便り

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 『山陰海岸国立公園』は但馬地方(兵庫県)を中心に西は鳥取砂丘(鳥取県)東は丹後半島の首元の網野(京都府)に至る日本海に面する海岸線を中心とする75kmの国立公園である。
海岸線は京都府;海岸線約12km、兵庫県;海岸線約50km、鳥取県 ;海岸線約13kmであり、
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 関係市町村は;京都府 - 京丹後市
          ;兵庫県 - 豊岡市、香美町、新温泉町
          ;鳥取県 - 鳥取市、岩美町
 見所、名所旧跡等々は町の紹介毎に書いていきます。先ずはヒゲ爺の故郷から始める所存です。

『ヒゲ爺の故郷諸寄(もろよせ)』 (新温泉町)
 ヒゲ爺は山陰の海っ子生まれで海育ち、image[2]
ホタテ貝を伏せたような入り口が狭く海岸線は円く真っ白い砂浜が広がり波の打ち寄せる砂浜は「雪の白浜」と称され自然の良港と言われた小さな漁村である。
村の港を望む崖の上にある為世永神社(いよながじんじゃ)境内には
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「見渡せば 沖に絹巻 千歳松 波諸寄の 雪の白浜」  伝西行法師歌碑がある。寄進者は「馬関吉津新兵衛」明治十八年建立と刻まれている、馬関は今の下関のこと、如何なる人物か調べてみたが定かでない。この地が近世から近代初頭まで北前船寄港地であった事実からして恐らく下関の北前船の船持ちではなかろうか?
村にある他の「春日神社」にも多くの絵馬が奉納されている。
 西行歌碑については、子供の頃から「新古今集」に掲載と聞いていたので調べてみた、西行歌は95首あるがこの歌は無い。
そこで、YAHOOの「知恵袋」に「『見渡せば 沖に絹巻き 千歳松 波諸寄の 雪の白浜』の歌碑が兵庫県温泉町諸寄の為世永神社にあります。西行法師の和歌と言われているが、新古今集95首にも有りません。
何歌集に掲載されているか教えて下さい。」と投稿した結果西行の研究者であろう方から以下の回答があった。「残念ながら、西行の歌と確認できませんでした。
また、山家集、西行法師歌集、聞書集、残集にもこの歌はありませんでした。
degital西行庵 樣
http://www.saigyo.org/saigyo/html/index.html
以上の点から、伝西行歌のものかと存じます。」
 残念ながら今だ真偽の程は分かっていない。伝西行歌としてそっとして置いた方が良いかも知れんとの思いもある。(『子供時代の泳ぎの訓練法』の一部を原文のまま掲載)
 
 
  「見渡せば 沖に絹巻 千歳松 波諸寄に雪の白浜」の歌碑の件:作者が解りました。・・・豊岡藩 第二代藩主京極高住の作と解りました。新温泉町浜坂在住で「以命亭」にお勤めの岡部良一さんに教えて戴きました。
 長年に亘り、喉に刺さった小骨が取れたの感があります。有難う御座いました!
 
 

 
 古い記述としては、清少納言枕草子に; 

百八十九 清げなすがた; 浜は、そとの浜。吹上(ふきあげ)の浜。長浜(ながはま)。打出(うちで)の浜。諸寄(もろよせ)の浜。千里(ちさと)の浜こそ広う思ひやらるれ。 と紹介されている。
何時の頃から村として成立したのか定かでは無いが可也古くから諸寄村が存在していたのは確かなようだ。
 諸寄湾の東側に芦屋城があり西側に為世永神社(いよながじんじゃ)がある。
芦屋城は北は日本海、東に浜坂の平野、西は諸寄(もろよせ)の港、南から幾重にも重なって迫る山脈の端、海抜200mのこんもりとした山の頂に築かれたのが芦屋城である。
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                諸寄湾の朝焼け風景 
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                 湾内と沖合い風景
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                 夕日が沈む沖合い
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 芦屋城のあった山;山頂に天守閣があり井戸の跡も残っている。芦屋城は標高200mメートルの山城で、日本海を眼前に断崖絶壁に囲まれた天然の要害堅固な城であったそうだ。
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               町史跡表示と略史の看板ひょうじ内容
 築城年代は不明であるが、南北朝のころ、因幡(鳥取県)の守護職として布施城にいた山名勝豊(宗全の第三子)から、塩冶周防守が二方郡をもらい受けたと伝えられており城は、本丸と二の丸からなり、典型的な山城である。
天正八年(1580)、羽柴秀吉(実働隊は秀長)が但馬平定したととき、宮部善祥房を大将として芦屋城攻めがあり、大軍を持って押し寄せたが、塩冶周防守は山の急斜面を利用し投石、糞尿攻撃等で反撃し守りはかたく城はなかなか落城しなかった。正に楠正成流戦法で防戦したそうだ、痛快な話であるまあいか。
 寄せ手の大将宮部善祥房は正面突破を諦め長期戦の水、兵糧攻めの策を採るが忍びの報告でも一向に気勢の衰える気配も無い。
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 城山公園地案内図;芦屋城は三方は断崖絶壁に囲まれ一方は北に向かった半島で日本海に突き出ている、現在は先端まで歩くことが出来る。

 塩冶周防守はこの要害堅固な自然を巧みに利用し城山から先端近い矢城ヶ鼻まで間道を造り途中の萌の浜には岩盤を刳り貫いた食料倉庫も造られ、水汲み場も造られていたそうである。
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朋の浜の洞窟;芦屋城の抜け穴、兵糧倉庫とも伝えられているが子供時代に探検した事があるが奥は可也広くなっているものの砂に埋もれ抜け穴、兵糧倉庫説の確認出来なかった記憶がある。以外にも何ヶ所か洞窟がある。

 塩冶周防守は良政を敷き領民に親しまれてていたので、村人は「殿の一大事」と競って夜陰に混じり沖まで水食料を運こび城主を助けたと伝えられている。浜坂地方には郷村の幹部らからなる六軒衆と呼ばれる組織があり彼らは村の治安、入会地や灌漑用水の確保、領主への牽制などの役割を担っていた。また領主から命令があれば兵士の募集、船の準備、見張り、斥候、運搬等も請け負っていたとも考えられている。
彼らが援助したのであろうが何時までも続くわけも無い、ある時旅人を装った忍びが城山の南側の芦屋村の婆さんから聞いた話「この城は昔亀ヶ城と云って首が延びるんじゃそうな、首を切ったら城も落ちるじゃろう」を聞き込んで大将宮部に報告した。報告を聞いた宮部は「首が延びる」とは城の沖合いで兵糧の受け渡しがあるに違い無しと察し、受け渡し現場を奇襲し「延びた首」断ち切ってしまった。
兵糧を断たれたら小城のこと一溜りも無く落城、城主と数人の武将、志願の兵卒と半島の先端から船で敗走し因幡の鳥取城に逃れた。翌年の豊臣秀吉との鳥取城の戦いに参加、雁金山城を守った。鳥取城落城後に切腹した。
 塩冶周防守は良政を敷き領民に親しまれてていたと前述したが、ヒゲ爺の子供の時代まで「地引網漁」が盛んに行われていた、その引き手の掛け声は「エンヤソウ、エンヤソウ」であり「塩冶周防、塩冶周防」と聞こえるが領民の慕う気持ちがその掛け声を産んだのでは無いだろうかと推測している。
また近郷では有名な塩谷海水浴場があるが塩谷は「エンヤ」と読める、秀吉の但馬因幡平定後諸寄は豊岡藩の領地に組み入れられたが、豊岡藩に遠慮して「塩冶」を「塩谷エンヤ」に改名したのでは無いだろうか?反骨精神の現れ?と思うと歴史を辿るのも中々面白い。

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 港の奥の小山の中腹に為世永神社(いよながじんじゃ)がある

祭神は、★塩土老翁神(シオツチオジノカミ)を祀る。諸寄港を見下ろす高台に鎮座する。諸寄港は、北前船の風待港として栄え、境内には、全国の船主などから寄進された玉垣が残っている。航海の安全・商売の繁盛を祈願して奉納された船絵馬は、現在は同じ諸寄にある八坂神社社務所に保管されている。
★日本神話に出てくる神で別名塩竈明神とも塩筒老翁神とも云う、塩土は海潮の霊のことで海の神であり、別称の塩筒は海路の神を意味している。
 
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 奉納された5枚の船絵馬 (現在は八坂神社の社務所に保存されている)奉納者を調べたが何れも不明であった。
 北前船(きたまえぶね)とは、江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことである。北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して瀬戸内海の大坂に向かう航路を上り廻船と言い逆航路を下り廻船と呼んだ、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。
 諸寄では良質の砥石が生産され荷積された。また加賀藩の米奉行所の与力が常駐していたそうである。
廻船には、上方灘の酒を江戸に運ぶ樽廻船とか菱垣廻船があるが何れも貨物船であり北前船とは区別される。
関東平野の水は硬質で江戸では旨い酒が造れなかったので上方特に灘の酒を江戸に運んだのはご存知の通りである。
北前船、廻船については高田嘉兵衛の生涯を書いた司馬良太郎の「菜の花の沖」に詳しく記されている中々面白い、一読に値する。

 『諸寄で建造された古代船』

 豊岡市出石町の袴狭(はかざ)遺跡遺跡から出土した古墳時代前期(四世紀初頭)の線刻画を基に、復元された古代船「ひぼこ」(長さ十一メートル、幅一・五メートル、重さ約三トン)の進水式が平成19年4月29日に諸寄港で行われた。
古代邪馬台国の頃大陸に行き来していた古代船、全長11Mの立派な手造船で手斧で大木を刳り貫き造ったそうだ。「兵庫県立考古博物館」播磨町)に展示されている。
ヒゲ爺の子供の頃から在った尾崎造船所(尾崎昌道代表)で建造された。近年はグラスファイバーのボートばかりに為ったが近郷の漁港には木造船の造船所在った記憶がある。今でもこれ程の技術が残って居るのは嬉しいことだ。
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 『諸寄の麒麟獅子舞』
 「ひぼこ」の進水式のお祝いに麒麟獅子舞が奉納された。県指定無形民俗文化財
獅子舞は諸寄の夏祭り(7月13~15日)に為世永神社に奉納される、新温泉町にはその他7地区に「麒麟獅子舞」がある。
 新温泉町の麒麟獅子舞;
•浜坂麒麟獅子舞 新温泉町浜坂宇都野神社(7月第三土日)
•諸寄麒麟獅子舞 新温泉町諸寄為世永神社(7月14日、15日)
•居組麒麟獅子舞 新温泉町居組大歳神社 (10月9日)
•三尾麒麟獅子舞 新温泉町三尾八柱神社・三井神社(10月9日)
•栃谷田君麒麟獅子舞 新温泉町栃谷厳島神社.長田神社(10月13日)
•七釜麒麟獅子舞 新温泉町七釜山宮神社(9月29日)
•福富麒麟獅子舞 新温泉町福富三柱神社(9月28日)
•和田麒麟獅子舞 新温泉町和田八柱神社(10月3日)
•千谷麒麟獅子舞 新温泉町千谷秋葉神社(4月17日)、三宝荒神(9月19日)
何れも県指定無形民俗文化財 と為っている。
「起源は?」
 麒麟獅子舞の起源については定かではないが、江戸初期、鳥取県鳥取市の樗谿神社(おうちだにじんじゃ)に日光東照宮を象徴する麒麟を頭にした麒麟獅子舞を、因幡東照宮の奉納芸能として舞ったのが始まりとされている。いつの頃からか、鳥取に広まった麒麟獅子舞が但馬にも伝えられたのではないかといわれているが、それを示す資料は残っていない。現在の保存分布は、鳥取県東部地域から新温泉町、香美町のみで、本州の他の地域では見ることができない。
麒麟獅子舞の麒麟は、空想上の動物で、大きな口と鼻の穴、目の上に太いまゆ、立った耳、そして金色の一本角とユーモラスな表情をしている。背の中央に黒のビロードを縫い合わせた真っ赤な胴幕を着用し、お囃子のリズムに合わせて舞い踊る。それぞれに舞い方、囃子のリズムなどが微妙に異なり、特に二頭舞(雌雄の舞)が行われているのは、但馬では浜坂宇都野神社と諸寄為世永神社の2ヶ所だけである。子どもの頭を獅子頭に噛んでもらうと、健康に育つと言われている。(但馬事典から)
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                麒麟獅子の舞姿と獅子頭

 『諸寄湾沖合い、近隣の風景と奇岩奇石』
 諸寄基点に西側より・・・・・・。
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 国道178号線沿いの穴見海岸;浅場でリュウグウノツカイが撮影された有名な海岸である
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1990/07/26 撮影された。撮影者 梶並政晴氏(津山マリンサービス)、当時釜屋の定置網(大敷き網漁)で計6匹リュウグウノツカイが捕獲された。
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                   千 貫 松 
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                千貫松から釜屋を望む
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          釜屋の港;古くから追う大敷き網漁をしている 
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甌穴(おうけつ)
 釜屋の池ノ島には、ポットホールといわれる円形の甌穴が3カ所できており、最大のものは直径5m、深さ5mもあります。数千年の歳月をかけて、波が岩棚の石を回転させて掘り下げていったものである
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                  西の洞門
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     海金剛;前述写真「湾内と沖合い風景」の一文字波止の前方に見える
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              竹の子様の島の後ろに洞窟がある 
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         芦屋城跡公園の下の塩谷海岸(海水浴場)に奇岩がある
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 諸寄近辺の岩石の殆んどが写真の様に赤黒くブツブツ状の岩である。太古の昔日本列島が大陸の南端の一部であった頃火山活動に因って噴出した安山岩や火砕流が海水で冷却された事を彷彿させるような岩石、島等が至る所ある。兵庫県を境に鳥取側は赤みが強い岩肌の島が多い。
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  萌の浜海水浴場;芦屋城の兵糧蔵とも間道とも伝えられる洞窟のある海岸
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 大振島と東洞門のある断崖;此処までが諸寄湾の内海で北は外洋大振島までの内海がヒゲ爺の少年時代の泳ぎの場(漁場)であった
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                      東 洞 門 
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               千 賊 断 崖;矢城ヶ鼻灯台の下
 灯台の近くに「こうも洞」と言う奥行き80mの洞窟がある。芦屋城の抜け道だと伝えられている。城を放棄して鳥取城に落ちる時この抜け道を通ったに違いない。
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矢城ヶ鼻灯台;此処より東は浜坂町芦屋地区となる

 

『諸寄の庚申堂』 は次編に移動しました。

  

 
                 
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