ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
- 2023 . 05 «
- 1
- 2
- 3
- 4
- 5
- 6
- 7
- 8
- 9
- 10
- 11
- 12
- 13
- 14
- 15
- 16
- 17
- 18
- 19
- 20
- 21
- 22
- 23
- 24
- 25
- 26
- 27
- 28
- 29
- 30
四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:土佐高知編 三十九番霊場
第三十九番札所;延光寺に向かう。距離大凡74km。
延光寺が今回の旅の最終霊場である。到着はpm3:20分ゆっくり参詣出来そうだ。

第三十九番札所 赤亀山 延光寺 寺山院

山 門

山門を潜ると左側に手水場・鐘楼・修業大師石像があり、右側に伝説にある赤大亀の石像がある。

手 水 場 と 修業大師像

魚の尾を回すと水が出る、吐水龍ならぬ吐水魚。

修 業 大 師 像

鐘 楼

背中に梵鐘を背負った大亀の石像
赤亀が竜宮城から持ち帰った(?)との伝説がある梵鐘は高さ33cmの小さな梵鐘で延喜11年(911年)の年号が刻まれ、国の重要文化財に指定され寺宝と為っている。
参道が右に曲ると左側に大師堂が、その先に本堂が建っている。

本 堂

本堂屋根の 彫 刻

本 堂 内 陣

大 師 堂
本堂前を右手に行くと眼洗いの井戸、庫裏・納経所がある。


目 洗 い の 井 戸
水不足に因っていた住人のために、弘法大師が錫杖で掘り当てたと伝えられる井戸で後に眼病に効くと伝えられ霊水として今でも眼病治癒を祈願する信者も多いそうだ。

納 経 所

御 朱 印
帰路の無事を祈りつつ参詣を終える・・・・・・合掌 11月2日午後4時帰路に就く。高知道路須崎(当時まだ西方は未完成)までR56号線⇒高松高速⇒鳴門経由⇒淡路高速⇒阪神高速⇒阪奈道路(水洗出口)⇒自宅に到着は3日に近い。
★ 本尊:薬師如来(伝 行基菩薩作) ★開基:行基菩薩
★ 本尊の真言:おん、こんころ、まとぅぎ、そわか
『略縁起』:
神亀元年(724)、聖武天皇の命により行基菩薩が薬師如来を刻んで本尊として安置、堂塔 を建立したのがはじまり。その頃の山号は、薬師の瑞相に因んで亀鶴山と言った。
のちの延歴14年(795)には弘法大師が来錫、桓武天皇の勅願所として再興、日光月光の両菩薩を刻み脇仏として安置して堂塔を整備された。
さらに大師は、中山郷の里人たちが飲み水に苦しんでいるのを見て、錫杖で地面を突き、清水を湧出させて里人の苦境を救ったという故事もあり、この水は「目洗い井戸」と呼ばれている。
さらに年代を経た延喜11年(911)、赤亀が梵鐘を背負って出現、そのことに因み山号を現在のものに改めた。
★☆『略縁起』を書くに当たり『四国八十八ヶ所詳細地図帳』や『四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページ』等々を参考にして疑問も抱かず徳島、高知と39ヶ寺を書き進めてきたがここにきて大きな疑問に気づいた。
①延歴14年(795)には弘法大師が来錫、当寺の霊域を天皇に奏答し天皇の勅願所として再興とある。 (地図帳)
②弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間(782〜805)で、桓武天皇(在位781〜806)の勅願所として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。
①②何れも年代的に信じられない。何故なら生まれたのが宝亀5年(774年)、延歴14年(795年)といえば21歳の無名な一修行僧の筈である。修業中の一僧侶空海に桓武天皇が勅命を降すなど考えられない。
桓武天皇は天台宗の最澄を庇護しているが空海との接点は歴史書に見当たらない。空海が天皇の庇護を受けるのは嵯峨天皇以降と思われる。
延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入り仏道修行 延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った言われている。
桓武天皇の勅願所を再興するなど不可能では無かろうか。
歴史上、空海は25歳~30歳(延暦18~23年799~804)まで不明とされている。再登場は31歳で東大寺戒壇院で得度受戒し第16次遣唐使の自費留学僧として長安に入る。船団は4艘で最澄は他船で国費留学している(2艘は沈没)最澄は既に高僧の域にあり桓武天皇の庇護を受けている。
両僧が唐から帰国したのが大同元年(806)桓武天皇が崩御されたのが806年であり空海は桓武天皇に会っていないと推測される。
蛇足ながら醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(おくりな)が贈られたのは延喜21年(921年)の事である。
愛媛に入る前に『略縁起』を勉強しなおす必要がありそうだ。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)

本尊は空海作の薬師如来像。空海の御影堂、五社神社と拝殿がある。十町ばかり行くと奥の院がある。瀧が流れ、俗塵を忘れさせる幽玄の境地だ。霊地だが、昔のことは分からない。悲しむべきことだ。土佐の霊場は、すべて国主が補修したということだ。
延光寺が今回の旅の最終霊場である。到着はpm3:20分ゆっくり参詣出来そうだ。

第三十九番札所 赤亀山 延光寺 寺山院

山 門

山門を潜ると左側に手水場・鐘楼・修業大師石像があり、右側に伝説にある赤大亀の石像がある。

手 水 場 と 修業大師像

魚の尾を回すと水が出る、吐水龍ならぬ吐水魚。

修 業 大 師 像

鐘 楼

背中に梵鐘を背負った大亀の石像
赤亀が竜宮城から持ち帰った(?)との伝説がある梵鐘は高さ33cmの小さな梵鐘で延喜11年(911年)の年号が刻まれ、国の重要文化財に指定され寺宝と為っている。
参道が右に曲ると左側に大師堂が、その先に本堂が建っている。

本 堂

本堂屋根の 彫 刻

本 堂 内 陣

大 師 堂
本堂前を右手に行くと眼洗いの井戸、庫裏・納経所がある。


目 洗 い の 井 戸
水不足に因っていた住人のために、弘法大師が錫杖で掘り当てたと伝えられる井戸で後に眼病に効くと伝えられ霊水として今でも眼病治癒を祈願する信者も多いそうだ。

納 経 所

御 朱 印
帰路の無事を祈りつつ参詣を終える・・・・・・合掌 11月2日午後4時帰路に就く。高知道路須崎(当時まだ西方は未完成)までR56号線⇒高松高速⇒鳴門経由⇒淡路高速⇒阪神高速⇒阪奈道路(水洗出口)⇒自宅に到着は3日に近い。
★ 本尊:薬師如来(伝 行基菩薩作) ★開基:行基菩薩
★ 本尊の真言:おん、こんころ、まとぅぎ、そわか
『略縁起』:
神亀元年(724)、聖武天皇の命により行基菩薩が薬師如来を刻んで本尊として安置、堂塔 を建立したのがはじまり。その頃の山号は、薬師の瑞相に因んで亀鶴山と言った。
のちの延歴14年(795)には弘法大師が来錫、桓武天皇の勅願所として再興、日光月光の両菩薩を刻み脇仏として安置して堂塔を整備された。
さらに大師は、中山郷の里人たちが飲み水に苦しんでいるのを見て、錫杖で地面を突き、清水を湧出させて里人の苦境を救ったという故事もあり、この水は「目洗い井戸」と呼ばれている。
さらに年代を経た延喜11年(911)、赤亀が梵鐘を背負って出現、そのことに因み山号を現在のものに改めた。
★☆『略縁起』を書くに当たり『四国八十八ヶ所詳細地図帳』や『四国八十八ヶ所霊場会公式ホームページ』等々を参考にして疑問も抱かず徳島、高知と39ヶ寺を書き進めてきたがここにきて大きな疑問に気づいた。
①延歴14年(795)には弘法大師が来錫、当寺の霊域を天皇に奏答し天皇の勅願所として再興とある。 (地図帳)
②弘法大師がこの寺を訪ねたのは延暦年間(782〜805)で、桓武天皇(在位781〜806)の勅願所として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。
①②何れも年代的に信じられない。何故なら生まれたのが宝亀5年(774年)、延歴14年(795年)といえば21歳の無名な一修行僧の筈である。修業中の一僧侶空海に桓武天皇が勅命を降すなど考えられない。
桓武天皇は天台宗の最澄を庇護しているが空海との接点は歴史書に見当たらない。空海が天皇の庇護を受けるのは嵯峨天皇以降と思われる。
延暦11年(792年)、18歳で京の大学寮に入り仏道修行 延暦12年(793年)、大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入った言われている。
桓武天皇の勅願所を再興するなど不可能では無かろうか。
歴史上、空海は25歳~30歳(延暦18~23年799~804)まで不明とされている。再登場は31歳で東大寺戒壇院で得度受戒し第16次遣唐使の自費留学僧として長安に入る。船団は4艘で最澄は他船で国費留学している(2艘は沈没)最澄は既に高僧の域にあり桓武天皇の庇護を受けている。
両僧が唐から帰国したのが大同元年(806)桓武天皇が崩御されたのが806年であり空海は桓武天皇に会っていないと推測される。
蛇足ながら醍醐天皇から「弘法大師」の諡号(おくりな)が贈られたのは延喜21年(921年)の事である。
愛媛に入る前に『略縁起』を勉強しなおす必要がありそうだ。
★ 『四国遍礼霊場記』 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護):(参考資料として転載)

本尊は空海作の薬師如来像。空海の御影堂、五社神社と拝殿がある。十町ばかり行くと奥の院がある。瀧が流れ、俗塵を忘れさせる幽玄の境地だ。霊地だが、昔のことは分からない。悲しむべきことだ。土佐の霊場は、すべて国主が補修したということだ。
スポンサーサイト
コメント
コメントの投稿
トラックバック