ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:伊予愛媛編 第四十五番霊場
第四十五番札所 岩屋寺に向かう。距離大凡13Km。
山陰海岸の絶壁の様な岩山に沿う様に寺はあった。

第四十五番札所:海岸山 岩屋寺

山 門

扁 額

本 堂

本 堂

本堂に登る石段右脇に 手 水 場

本堂に登る石段左脇に 鐘 楼


太 子 堂


本堂右脇の断崖の岩窟に仏像が祀られている


見る場所や障害物を除いたりしながら見ると仏像の姿が見えてくる様な気がするから不思議である

極めつけはこの一枚。岸壁一枚巨大な仏像の顔である。『山全体がご本尊』と云われる所以であろう!。
当寺の登り口の売店に後20分と書かれた札が下がっていた。可也急な石段で腰を屈め無ければならん場所もある程だ。漸くの思いで本堂にまで辿り着き休憩用長椅子で一服していると品の良い老婆が座った、『僕は漸く登り着いたのにお元気ですなあ~、何歳になられますか?』『93歳になります』との事、付き添いの方も居たが別に介添えをしている様子も無い、この様に元気に老いたいものだ。
老婆に見習い元気にと思いつつも帰りの道は遠かった。


絶壁にめり込むように建つ庫裏・宿坊

庫裏・宿坊にある 納 経 所

御 朱 印


下山の途中記念に一枚 (この頃は髭無し)
登りは参道の旗に励まされふうふう言いながら登ったが、境内で一服した所為か下りは些か余裕も出来多様な石像が目に留まる。

安 ら ぎ 地 蔵 尊

弘法大師に従う石仏郡


道開き不動・納経所下の曲がり角に鎮座
参道の地蔵尊・名も無い石仏・のぼり旗等に導かれながら下山、無事参詣を終えて第46番札所 浄瑠璃寺に向かう・・・・・・合掌 4月4日午前13時15分。
【略縁起】
弘仁6年(815年)、弘法大師は、かつて修行の霊地を求め投げていた明王鈴の音を頼りにこの地に巡錫、当時この山に住んでいた女の仙人(法華仙人)は大師に帰依、一山を献じて大往生を遂げた。
大師は不動明王の木像と石像のニ体を刻み、木像は本堂へ、石像は奥の院の岩窟に山に安置している。山そのものをご本尊として護摩修法された。
この寺の本堂は大師堂から少し下がったところにあり、大師堂より小さいが、本堂が小さい理由は、山全体がご本尊とされているからである。
山号は、大師の詠み歌「山高き谷の朝霧海に似て 松吹く風を波にたとえむ」からとって名付けられた。
この寺は何時の頃からか44番の奥の院とされてたが、明治7年に独立し45番札所になった。
独立後の31年には火災で僅かな史料を残し全山焼失したが、大正9年に再建された。
本堂は200M程の垂直の大岩壁に抱かれて建っており本堂右側の嶽は金剛界峰、左側を胎蔵界峰といい厳かな景観がある。昭和19年国の名勝地に指定されている。
★ 本尊:不動明王(伝 弘法大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:のぅまく、さんまんだ、ばさらだん、せんだ、まかろしゃだ、そはたや、うん、 たらた、かんまん
★ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護)
(参考資料として)
▼海岸山岩屋寺(四十五番)

『 四国偏礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) 』景観図・「岩屋寺」
浮穴郡にある。名の示すように巨大な岩山に建てられている。まるで龍が蟠り、虎が蹲っているような岩の姿だ。奇怪と言うほかはない。切り立った断崖の、岩が軒のように出ている場所に堂が建っている。堂というよりは室であり、いずれも張り出した岩を屋根としている。竈を置く室は張り出した岩だけで十分なので、別に屋根を作ったりしていない。本堂の不動明王石像は空海の作。本堂から大師堂へは廊下を渡して通じている。堂の三丈ばかり上、特に突き出た岩があり、堂の縁から十六段の梯子で登る。梯子は空海が懸けたときとのままだという。岩の上には仙人堂が建っている。像は空海作。法華経を信仰していたため法華仙人と呼ばれている。大師が訪れるまで、この山に住んでいた。更に上方、屏風のような形に岩が落ち込んだ場所に、卒塔婆が建てられている。昔から二本あり、空海が両親のために建てたものだと言われていた。いつのころからか、一本が傾いてしまっていた。延宝三年四月十三日、真っ直ぐに直されており、紙らしい札が付いていた。鳥でなければ行けない場所なので、見る人は驚き合った。同十年、大風が吹いて、一基は見えなくなった。卒塔婆が一本ある。その下に塔が建っている。仙人の舎利塔と呼ぶ。不動堂の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。鉦鼓を持っている。阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、飛来の仏と呼ばれている。近くに仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。
奥に進むと、せりわりと呼ばれる、道のようになった岩の割れ目がある。白山権現が作ったという。高さは二十間ほどで、奇妙に突き出た険しい岩がある。高さは三十尺ぐらいだ。二十一段の梯子を懸けて登る。上には、鉄で作った白山権現社が鎮座している。
その右に屹立する岩の頂きに別山社、続く岩の頭に高祖権現社が並ぶ。ここを離れて勝手・子守・金峯・大那智などの神社が、随所に建っている。
だいたい、人の話は大袈裟なので、聞くより見るは劣るというが、岩屋寺に限れば、聞きしに勝る奇観絶景である。険しく極まる岩山は、何かよいことが起こりそうな形だ。聖人や神々が壮麗を尽くしたかのような美しさ。幽玄で微妙な地形であり、山の精霊が通る道を経れば、自然の尽きせぬ偉大さを思い知らされる。俗世の雑事を忘れ、石粒を払って霊柴の茎を食む仙人でもなければ、簡単に登ってくることはできないだろう。遠くのことを近くに感じ、遙かな哲理を探り出し、信仰心篤く神通力を持つ人でなければ、ここでの修行もうまくいかないだろう。空海の神懸かりな偉大さを推測することができよう。山号の海岸は、空海の歌による。「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を浪に喩えん」。
山陰海岸の絶壁の様な岩山に沿う様に寺はあった。

第四十五番札所:海岸山 岩屋寺

山 門

扁 額

本 堂

本 堂

本堂に登る石段右脇に 手 水 場

本堂に登る石段左脇に 鐘 楼


太 子 堂


本堂右脇の断崖の岩窟に仏像が祀られている


見る場所や障害物を除いたりしながら見ると仏像の姿が見えてくる様な気がするから不思議である

極めつけはこの一枚。岸壁一枚巨大な仏像の顔である。『山全体がご本尊』と云われる所以であろう!。
当寺の登り口の売店に後20分と書かれた札が下がっていた。可也急な石段で腰を屈め無ければならん場所もある程だ。漸くの思いで本堂にまで辿り着き休憩用長椅子で一服していると品の良い老婆が座った、『僕は漸く登り着いたのにお元気ですなあ~、何歳になられますか?』『93歳になります』との事、付き添いの方も居たが別に介添えをしている様子も無い、この様に元気に老いたいものだ。
老婆に見習い元気にと思いつつも帰りの道は遠かった。


絶壁にめり込むように建つ庫裏・宿坊

庫裏・宿坊にある 納 経 所

御 朱 印


下山の途中記念に一枚 (この頃は髭無し)
登りは参道の旗に励まされふうふう言いながら登ったが、境内で一服した所為か下りは些か余裕も出来多様な石像が目に留まる。

安 ら ぎ 地 蔵 尊

弘法大師に従う石仏郡


道開き不動・納経所下の曲がり角に鎮座
参道の地蔵尊・名も無い石仏・のぼり旗等に導かれながら下山、無事参詣を終えて第46番札所 浄瑠璃寺に向かう・・・・・・合掌 4月4日午前13時15分。
【略縁起】
弘仁6年(815年)、弘法大師は、かつて修行の霊地を求め投げていた明王鈴の音を頼りにこの地に巡錫、当時この山に住んでいた女の仙人(法華仙人)は大師に帰依、一山を献じて大往生を遂げた。
大師は不動明王の木像と石像のニ体を刻み、木像は本堂へ、石像は奥の院の岩窟に山に安置している。山そのものをご本尊として護摩修法された。
この寺の本堂は大師堂から少し下がったところにあり、大師堂より小さいが、本堂が小さい理由は、山全体がご本尊とされているからである。
山号は、大師の詠み歌「山高き谷の朝霧海に似て 松吹く風を波にたとえむ」からとって名付けられた。
この寺は何時の頃からか44番の奥の院とされてたが、明治7年に独立し45番札所になった。
独立後の31年には火災で僅かな史料を残し全山焼失したが、大正9年に再建された。
本堂は200M程の垂直の大岩壁に抱かれて建っており本堂右側の嶽は金剛界峰、左側を胎蔵界峰といい厳かな景観がある。昭和19年国の名勝地に指定されている。
★ 本尊:不動明王(伝 弘法大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:のぅまく、さんまんだ、ばさらだん、せんだ、まかろしゃだ、そはたや、うん、 たらた、かんまん
★ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護)
(参考資料として)
▼海岸山岩屋寺(四十五番)

『 四国偏礼霊場記(しこくへんろれいじょうき) 』景観図・「岩屋寺」
浮穴郡にある。名の示すように巨大な岩山に建てられている。まるで龍が蟠り、虎が蹲っているような岩の姿だ。奇怪と言うほかはない。切り立った断崖の、岩が軒のように出ている場所に堂が建っている。堂というよりは室であり、いずれも張り出した岩を屋根としている。竈を置く室は張り出した岩だけで十分なので、別に屋根を作ったりしていない。本堂の不動明王石像は空海の作。本堂から大師堂へは廊下を渡して通じている。堂の三丈ばかり上、特に突き出た岩があり、堂の縁から十六段の梯子で登る。梯子は空海が懸けたときとのままだという。岩の上には仙人堂が建っている。像は空海作。法華経を信仰していたため法華仙人と呼ばれている。大師が訪れるまで、この山に住んでいた。更に上方、屏風のような形に岩が落ち込んだ場所に、卒塔婆が建てられている。昔から二本あり、空海が両親のために建てたものだと言われていた。いつのころからか、一本が傾いてしまっていた。延宝三年四月十三日、真っ直ぐに直されており、紙らしい札が付いていた。鳥でなければ行けない場所なので、見る人は驚き合った。同十年、大風が吹いて、一基は見えなくなった。卒塔婆が一本ある。その下に塔が建っている。仙人の舎利塔と呼ぶ。不動堂の上の岩窟は、自然と厨子のようになっており、中には高さ四尺余りの銅製仏像が置かれている。鉦鼓を持っている。阿弥陀如来だということだ。各仏格は峻別できるものではなく融通無碍ではあるが、如来・菩薩・明王・天といった四種の身相は経や儀規に定められており、形式を私にすることはできない。阿弥陀如来であることを疑う者もいる。もっともなことだ。いつのころかに飛んで来た仏であるから、飛来の仏と呼ばれている。近くに仙人窟がある。法華仙人が人間としての肉体を失い精霊となった場所だ。
奥に進むと、せりわりと呼ばれる、道のようになった岩の割れ目がある。白山権現が作ったという。高さは二十間ほどで、奇妙に突き出た険しい岩がある。高さは三十尺ぐらいだ。二十一段の梯子を懸けて登る。上には、鉄で作った白山権現社が鎮座している。
その右に屹立する岩の頂きに別山社、続く岩の頭に高祖権現社が並ぶ。ここを離れて勝手・子守・金峯・大那智などの神社が、随所に建っている。
だいたい、人の話は大袈裟なので、聞くより見るは劣るというが、岩屋寺に限れば、聞きしに勝る奇観絶景である。険しく極まる岩山は、何かよいことが起こりそうな形だ。聖人や神々が壮麗を尽くしたかのような美しさ。幽玄で微妙な地形であり、山の精霊が通る道を経れば、自然の尽きせぬ偉大さを思い知らされる。俗世の雑事を忘れ、石粒を払って霊柴の茎を食む仙人でもなければ、簡単に登ってくることはできないだろう。遠くのことを近くに感じ、遙かな哲理を探り出し、信仰心篤く神通力を持つ人でなければ、ここでの修行もうまくいかないだろう。空海の神懸かりな偉大さを推測することができよう。山号の海岸は、空海の歌による。「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を浪に喩えん」。
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