ヒゲ爺の独り言
エッセイ、昔の思い出話、釣り魚話、喰らい方等々
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四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 81番霊場
第八十一番札所 白峰寺 向かう 大凡 13,5km。

第八十一番札所 綾松山 白峰寺 洞林院

山 門
この山門は「七棟門」と言い、高麗形式の門の左右に2棟の塀を連ねた珍しい堀重門で、棟数あわせて7棟、故にこの門を七棟門と呼んでいる。 享保3年(1803年)に再建された。

扁 額

ひげ爺山門前で記念に一枚
山門を潜り参道を進むと正面に護摩堂がある、納経所も兼ねている・・・

護 摩 堂
本堂大師堂まで行けない方はここでお参りするための大師像あり拝顔できる。

扁 額

内 陣
護摩堂の前を左に進むと右に手水場があり正面に頓証寺殿がある・・・

手 水 場
手水で身を清め頓証寺殿に向かう・・・

勅 額 門
後小松天皇の直筆扁額が奉納されてこの門に掲げられたので、勅額門(ちょくがくもん)と呼んでいる。
勅額(ちょくがく)とは、皇帝や天皇などが国内の寺院に特に与える直筆の書で記された寺社額のことである。

扁 額
この額は足利義持(第4代将軍・義満の子)の奏請によって後小松天皇(第100代天皇)の真筆であり、応永22年(1415年)奉納され掲げられたのでこの門を勅額門と呼ぶように為った。現行の物はレプリカで実物は宝物館に収蔵されており重要文化財に指定されているそうだ。

頓 証 寺 殿
崇徳天皇の御廟所・・・


扁 額
建物は延宝八年(1680年)松平頼重、頼常両公(讃岐高松城主初代・2代藩主)により再建。

白 峯 御 陵
頓証寺殿の裏手にある。 第七十五代崇徳天皇の御陵、上円下方墳。保元の乱に敗れ讃岐に配流されて8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされる。

西 行 法 師 の石 像
御陵の傍らに西行廟参の遺跡として西行法師石像を安置されている。
歌碑には・・・
よしや君 昔の玉の 床とても かゝらん後は 何にかはせん (西行:山家集)
この歌は西行が上皇のご霊前に捧げた鎮魂の歌として今に広く知られる歌である。

石 造 十 三 重 塔
源頼朝が崇徳天皇の菩提のために建立したと伝えられ、東塔は総高5,95mの花崗岩製で弘安元年(1278年)建立、西塔は総高5,62m角レキ凝灰岩製で元亨四年(1324年)建立、昭和29年9月17日指定。
勅額門を出ると本堂・太子堂へと登る石段がある・・・急な92段の石段を登ると右側に鐘楼堂・回向堂があり左側には薬師堂・行者堂・阿弥陀堂の順に間隔をおいて並んでいる。

本堂・太子堂へ登る急な石段

鐘 楼 堂

回 向 堂

薬 師 堂 (福禄寿像)

行 者 堂 (寿老人像)

阿 弥 陀 堂 (布袋像)
白峯寺堂宇の中では最も古く、堂内中央に阿弥陀三尊を置き、その後方の壁面に 10段の階段を作り、高さ16cmの台座付き木造阿弥陀如来小立像を1000体並べ安置している。このことから千体阿弥陀堂とも呼ばれている。
92段の石段を登り切ると本堂と太子堂がある・・・


本 堂 (毘沙門天)
本尊千手観音を祀る・・・

扁 額

天 井 の 灯 篭

内 陣
隣接する太子堂・・・


太 子 堂
参詣境内散策の後再び護摩堂に向かい御朱印を戴く・・・

御 朱 印
無事参詣を終えて第82番札所 根香寺に向かう・・・・・・・合掌 10月10日午前10時10分
『略縁起』
弘仁6年(815年)白峰山に登られた弘法大師は山頂に如意宝珠を埋め井戸を掘り衆生済度を祈願された。
貞観2年(860年)来錫した★智証大師は白峰大権現の『海上まで届く異光あり、その霊木で本尊を彫るべし』とのご神託を受け、霊木で千手観音菩薩を刻み本尊とした。その後盛衰を繰り返し、本堂は慶長4年(1599年)高松藩主生駒家が再建、太子堂は文化8年★松平頼儀が再建。保元の乱で敗れ配流、崩御された崇徳上皇の陵,頓証寺殿がある。
★智証大師:円珍(えんちん)と言う。平安時代の天台宗の僧。智証大師(智證大師)は諡号(しごう)である。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
★諡号:諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。
★松平頼儀:讃岐国高松藩の第8代藩主。「讃岐二白」と呼ばれる製塩と製糖の産業育成を行い、善政で知られる。
★保元の乱で敗れ配流、崩御された崇徳上皇:七十九番札所 天皇寺で説明済。
★ 本尊:千手観音菩薩 (智証大師作) ★ 開基:弘法大師
★ 本尊の真言:おん、ばさら、たらまきりく
◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本) (じゃくほん )(翻訳・村上 護) (参考資料として)

空海の開基。岩の頭に宝珠を埋めて国家鎮護の押さえとし、阿伽井を掘って用水が永く清潔であるようにした。宝珠を埋めた場所は、滝壺となっている。
智証大師が唐への留学から戻り、金倉寺を建てて住んでいた貞観二年冬の初め、北条郡大椎の沖が鳴動し、海上が輝いた。珍しい芳香が国に満ちた。人々は怪しみ、何が起こったのかと国司が円珍和尚に尋ねた。和尚が十峰山に登ると、幽窟に瑞光が差し込んでいた。この山の神だと名乗る老翁が出現した。老翁は言った。久しく神道に従いつつも、仏教に帰依したいと思っていた。和尚は仏教を広めるべき人だから自分を導いてほしい。瑞光は、補陀洛山から沖の海底に流れ着いた霊木から発している。この霊木で仏像を刻み、後世永く人々を救済するよすがとせよ。自分も暫く和尚と行動を共にする。こうして円珍は老翁と共に、霊木を山の上に引き上げ、十体の観音像を作った。うちの一体を、高堂を建てて安置し、本尊とした。
四方中央の五峰となっている霊場のうち、西にあるものを方位の色をとって白峰と呼んでいる。東の方位は青で象徴されるので、東に青峰があり、根来寺となっている。他の峰の名前については、分からない。
保元の乱によって崇徳院は讃岐に流された。崩御して、白峰に葬った。廟は玉で作ったように美しい。左の殿に観音、右の殿に相模坊を祀っている。相模坊は外見は天狗で本体は不動明王、南海の守護神である。天皇を葬った場所は、廟より少し後の山中にある。右に源為朝、左に為義の供養塔がある。天皇が流されてきた当初、松山の津にいた。地元役人の統括者・野太夫高遠が堂に天皇を入らせた。天皇は、ここで三年を過ごす。柱に次の歌を書いた「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 雲行く月の影に任せて」。天皇は暇にあかせて五部大乗経を字図から写した。京都内に納めようと送った。添えた歌は「浜千鳥 跡は都に通へども身は松山にねをのみぞなく」。ところが少納言信西は、天皇の写経に呪いが籠められているのではないかと疑い、経を返してきた。天皇は怒り狂い、大魔王となって日本を滅茶苦茶にしてやると誓った。指を切った血で願文を書いた。経を箱に納め「奉納龍宮城」と書いて、椎途沖の海に沈めた。海上に火が発し、童子が現れて舞った。天皇は、願いが成就したと喜んだ。その後は、髪も爪も伸びるに任せ、供も寄せ付けずにいた。松山から国府甲知郷鼓岳の堂に移された。六年を経た長寛二年八月二十六日、四十六歳で崩御した。白峰に葬った。近くに仕えていた遠江阿闍梨章実が、国府にあった御所を移築し、頓證寺と名付けた。菩提を弔った。
仁安元年冬の初め、西行法師が廟に詣でて法要を営んだ。廟が鳴動して中から歌が聞こえた。「松山の波に流れて来し舟の やがて空しくなりにけるかな」。西行は涙して、「よしや君 昔の玉の床とても かからん後は何にかはせん」と返した。社の前に、西行が腰を掛けたという西行石がある。山家集には、「讃岐に行って、松山という所に崇徳院はいたはずだと思って探したが遺跡を見つけられずに」と書いて「松山の波の景色は変わらじを 形なく君はなりまさりけり」と詠んでいる。上記二首を松山で詠んだとし、白峰に行って墓を見つけたときの歌として「よしや君」の歌を載せている。
崇徳天皇は当初、讃岐院と呼ばれていたが、安元末年、改めて崇徳院と追号した。後に祟りを恐れ、社壇を荘厳にし、荘園を寄進して崇敬するに至っている。青海・河内は治承年中の寄進。北山の新庄は文治年中に源頼朝が寄進した。
永治二年十月、天から火が降って寺は焼けた。宝物も残らず失った。宗徒の信証という者に夢のお告げがあった。白峰の本尊は既に作ってあるから、持って行けという。わけが分からないうちに四国大将細川武蔵守にも夢のお告げがあった。白牛寺釈迦堂にある本尊を、白峰に移せと。永徳四年五月二十六日、仏像を移した。この仏像は、智証大師が山の神と共に、補陀洛の霊木を刻んだものであった。以前のものも同じ時に作られたものの一体だった。以前あった像が再び出現したことと同じだ。仏像を移したとき、山は光に包まれ人々の顔まで金色に見えたという。応永十三年孟秋、清少納言入道常宗が縁起を起草し、侍従宰相行俊が清書した。この縁起は今も残っている。
廟の額に頓證寺とある。後小松天皇の宸筆である。書状も二通ある。崇徳院直筆の自画像も残っている。また、幸仁親王の描いた御影もある。天皇が使っていた筆や琵琶も納めている。後嵯峨天皇から奉納された青磁の香炉、花瓶は宝殿に備えている。絵や木仏など宝物は数十件あるが、多くて載せられない。
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