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西国三十三観音霊場 撮り歩き  第二番霊場  紀三井寺 

 
   
          第二番霊場  金剛宝寺   紀三井寺 
 
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 「行程」
 JR天王寺駅よりJR紀州路快速・和歌山駅下車.⇒JR紀勢本線・御坊行 乗り換えて2駅紀三井寺下車。所要時間・1時間26分。下車したら線路と並行する道路を南進する。凡そ10分程度で紀三井寺参道に至る。
 
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 「紀三井寺の紹介看板」
 当山は救世観音宗紀三井寺山金剛宝寺護国院と号し今から千二百年の昔、唐僧為光上人によって開創された霊刹であります。
御本尊「十一面観世音菩薩」(国宝・秘仏)は古来開運厄除けの霊験あらたかにして西国三十三ヵ所霊場第二番になっています。山内には清浄水、楊柳水、吉祥水の三つの井戸があり、常に清浄な水を湧き出させていることから紀三井寺と呼びならわされています。・・・・・・・

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.            「紀三井山御国院」の石柱と「紀三井寺 楼 門」
護国院楼門(重要文化財) - 参道正面、境内への入口に建つ楼門。室町時代中期の建立、三間一層入母屋造。寺伝では永正6年(1509年)に建立、永禄2年(1559年)に加修。正面両脇間に仁王像を安置している。
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                  楼   門 の説明看板
 
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                  「阿・吽」の 仁 王 像
 
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 楼門を潜ると230段余りの急な石段に為っており、参詣者泣かせのこの石段はかって「結縁坂」と言われていた。
 
 「結縁坂」のいわれ:楼門左の看板
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 「その昔紀ノ国屋文左衛門は、若い頃から孝心篤く母を背負ってこの坂を登り、観音様にお詣りしておりました。途中草履の鼻緒が切れて困っていたところ玉津島神社の宮司の娘「おかよ」が通りかかり鼻緒を挿げ替えたのが縁と為って二人は結ばれました。宮司の出資金によるみかん船で大儲けしたと言う。紀ノ国屋文左衛門ゆかりのこの坂は結縁坂です。
商売繁盛、良縁成就、その他何事もまずは、信心からと申せましょう。観音様に心からなる願いを掛けましょう。」
 
 石段を登る一番目の踊り場左の御堂・普門院
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                  普      門      院
            七鈴観音という十一面観音が祀られている
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                  七 鈴 観 音 堂  内 陣
 
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                  女  厄  除  け  坂
 
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                  芭   蕉   句   碑
              「みあぐれば 桜しもうて 紀三井寺」
 
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                  清   浄   水   地 
 
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                  穀     屋     寺
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             地蔵菩薩と聖徳太子が祀られている
 
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                  瀧     本     院
                 浪切不動尊が祀られている
 
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                  松     樹     院
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                 身代り大師が祀られている
 
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                  宝     蔵     院
      大日如来、不動明王、弘法大師、聖天(歓喜天)が祀られている

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 最後の石段・男厄除け42段。境内正面に六角堂がある。
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 江戸時代・寛延年間(1750頃)建立。三十三カ所の御本尊が祀られている。
 
 境内は左右に長く幅は狭い、本堂は左側の一番奥にある。先ず手水場を探す。
 
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                  手      水      場 
 手水場傍の子育て観音像:和歌の浦が遠望できる。
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                  子育て  観   音   像                 

 手水場で漱ぎ本堂へ・・・
 
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                  本            堂
 厨子内に安置されている本尊の「十一面観世音菩薩像」は為光上人が刻んだものといわれており、上人が感得した「千手観音像」はその胎内に納められているというが、何れも秘仏であり直接拝観できない。
 本尊の「十一面観世音菩薩像」、「千手観音像」、それに本堂に安置されている、「梵天・帝釈天立像」は何れも重要文化財に指定されている。
 和歌山城にも程近く、歴代藩主が訪れ紀州徳川家の繁栄を祈願した。
宝暦9年(1759年)本堂を新築(県指定の重要文化財)入母屋造りの重厚な建物である。10代藩主治宝が多宝塔を寄進している。
 本堂の前に植わっているのは全て桜の木で、桜の名所としても知られているそうである。
 
 納経を済まし、今回は「御朱印」を戴くのを忘れじと心していたので納経所で納経帳を購入し「御朱印」・・・。
 
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本堂側より新仏殿方向(右側)に向かう境内、幅は狭い。
 
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                  ご く ら く 橋 の観 音 様 
 
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                  太      子      堂
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                  太子堂(右)多宝塔(左斜め上)
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               多   宝   塔
 
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                  幸    福    観    音
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                  護 国 院 鐘 楼 (重要文化財)
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                  六      角      堂
江戸時代・寛延年間(1750頃)建立。三十三カ所の御本尊が祀られている。
 
 境内の右端に位置する建物:
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                  新      仏      殿
 木造・寄木の立像仏としては日本最大という巨大な「大千手十一面観世音菩薩像」が安置。仏師・松本明慶氏の作で五大陸から樹を集めて製作された。2008年5月に落慶法要が営まれた。
 
 唯今「大千手十一面観世音菩薩像」公開中に付き拝観する。
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           大千手十一面観世音菩薩像(12m)
 
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            御   朱   印
 
 無事参詣を終えて第三番札所 風猛山 粉河寺に向かう・・・・・・・合掌    11月4日午11時35分
 
 

  西国三十三観音霊場 撮り歩き  第一番霊場  青岸渡寺


           第一番霊場 那智山 青岸渡寺
 
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 青岸渡寺と熊野那智大社は、明治の神仏分離令まで一体のものであり、日本中どこでも見られた神仏習合の地であり、青岸渡寺の本堂と那智大社の本殿は同じ境内内に同居している。
 2004年7月にユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」・青岸渡寺境内は国の史跡「熊野三山」の一部で登録されている。
 明治時代に神仏習合が廃されたとき、熊野三山の他の2つ、熊野本宮大社、熊野速玉大社では仏堂は全て廃されたが、熊野那智大社では如意輪堂が破却を免れ、のちに信者の手で青岸渡寺として復興した。寺号は秀吉が大政所の菩提を弔うために建てた高野山の青巌寺に由来すると言われる。
 
 『行程』
JR天王寺駅AM07;59発特急くろしお⇒JR紀伊勝浦着AM11;33。勝浦駅よりバスで凡そ30分、青岸渡寺バス停到着は12時半。自宅を出たのがAM6;30だから可也の行程である。
 バス停から土産物屋、食堂前を通り200mも歩くと参道の階段前に出た。
 
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                  参道入り口:長い階段が続く

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                  参道の階段途中に郵便局が
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              階段途中で正面の山に「那智の滝」が・・・ 
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                  「那智の滝」遠望 
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                  参道右側に観音堂 
 
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 参道の8合目あたりであろうか階段が二手に別れる。左側には「熊野権現」の大鳥居、「右 西国第一番札所」の石柱が・・・
 
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                  「な ち さ ん 霊 場」の石 柱
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 ↑御詠歌・「補陀洛や 岸打つ波は 三熊野の 那智のお山に ひびく滝津瀬」の碑
 
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                  青岸渡寺 「仁 王 門」 
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                  「阿・吽」金剛力士像(伝・湛慶作)
 湛慶(たんけい、 承安3年(1173年) - 建長8年5月19日(1256年6月13日))は、鎌倉時代の慶派仏師。運慶のもうけた男子、次男康運、三男康弁、四男康勝など皆、仏師になったが、なかでも嫡男の湛慶は、運慶、快慶とならぶ大家として知られる。
 「代表作」:
 ・木造千手観音坐像 - 妙法院・三十三間堂本尊(京都府京都市)、国宝  
 ・木造毘沙門天及び両脇侍立像 - 雪蹊寺(高知県高知市) 3躯 彩色玉眼、嘉禄元年(1225年)頃、重要文化財 脇侍は向かって右が吉祥天、左が善膩師童子
 ・木造善妙神立像・白光神立像 - 高山寺(京都市) 2躯 彩色玉眼、重要文化財 銘記はないが湛慶の作と推定され、下記の高山寺諸像も同様に湛慶作だとされる。
 ・狛犬 - 高山寺(京都市) 3対 木造彩色、嘉禄元年(1225年)、重要文化財
 ・神鹿 - 高山寺(京都市) 1対 嘉禄元年(1225年)、重要文化財
 ・仔犬 - 高山寺(京都市) 1躯         (ウィキペディア参照)

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                  長い石段が続き漸く境内に・・・
 
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                  手水場で身を清めて本堂へ

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                  青 岸 渡 寺 本 堂「如意輪堂」
                  本尊;「如意輪観世音菩薩」
 伝承では仁徳天皇の時代(4世紀)、天竺(インド)から渡来した裸形上人による開基とされ、同上人が那智滝の滝壺で得た金製の如意輪観音を本尊として安置したという。
後に推古天皇の勅願寺となり、初に生仏聖が伽藍を建立し、丈六の本尊を安置して、その胎内に裸形上人感得の如意輪観音を納めたという。
 大神社(浜の宮王子)に隣接し、もとは那智権現の供僧寺で補陀洛寺ともいい、補陀落渡海の住僧を出した寺として知られている。 
補陀落渡海は、南の洋上に補陀落浄土を求め死を賭して漕ぎ出す信仰のことで、9世紀から18世紀までの間に20数回が試みられている。
 本堂(如意輪堂) 742平方m、棟高18m、入母屋造り東南向きであり推古時代より六回改築致し天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉の願いにより大工尼ヶ崎茂兵衛の造立で桃山時代建築とし南紀で一番古い建造物重要文化財指定。大正十三年に修理された。
 
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 天正18年(1590)、本堂(如意輪堂)再建の際、豊臣秀吉公より寄進された日本一の大鰐口。直径1.4m、重量450㎏。
鰐口にはその再興の趣旨が刻まれている。
 
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                  扁  額 と 本 堂 外 陣
 
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 本堂(如意輪堂)左側にある「如意輪観世音菩薩」立像・柔和なお顔立ちである。
 
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          本堂と熊野大社の社殿が並ぶ・・・将に神仏習合の証し

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 本堂外陣(右側)・本堂に向かって右手にある水子堂と宝篋印塔(ほうきょういんとう)
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                  水     子     堂
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 水子堂の右手にある石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)・1322年の刻銘があり、重要文化財。
 
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                  鐘  楼  堂 ・ 大  黒  天  堂 入り口
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                  大  黒  天  堂
  
 大黒天にお参りしている丁度PM2:00頃、三重塔方向から白煙が湧いて出た。スワ火事か?と坂を下ると三重塔前広場で沢山の山伏姿の行者が護摩を焚いていた。
 
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 予期せぬ「護摩焚き」の行事に出くわし思わずシャッターを切る・2015・10・25・PM2・01                 
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                    「般若心経」を一心に唱える行者衆
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 平安貴族・武者の出で立ち姿に見ほれて暫く茫然、平安時代の熊野詣を彷彿させる風景であった。
 
 予期せぬ出来事で参拝予定が一時間遅れ、慌てて下山。勝浦駅行きバスに乗ってから大失態に気付いた。
「納経」を戴いて無いジャン・・・。将に大失態である。因って今回の御朱印は有りません。
 勝浦駅でも一列車遅れてPM16:06発と為り家に着いたのはPM21:00を廻っていた。長い一日であった。
 
 
 
                

 お詫びと今後の予定

 
 夏男を豪語していたひげ爺でしたが『高野山に結願報告』を書いている途中から体調を崩し、凡そ3ヶ月何も書けない状態が続きました。それまで訪問して下さいました皆様に深くお詫び申し上げます。
 漸く体調も整いブログを再開しようと云う気持ちになり、先日世界遺産に登録されている熊野三山の一部「青岸渡寺」に参拝してきました。次回は「西国三十三観音 撮り歩き」の旅をUPしようと考えています。
 前回に増してご訪問下さいます様お願い申し上げます。

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                      2011・8・8 撮影
                              ひげ爺 良兵衛 より

 高野山に結願報告参拝

  
 結願を終えて一週間後高野山へ結願報告の為参拝に出掛けた。
自宅より300m西向きに走ると大阪中央環状線(R170)に突き当たり左折南行すること凡そ40kmで高野街道(R371)の標識、左折し橋本市経由で九度山を通り一路高野山へ、凡そ80kmである。
高野山へは三度目の参拝慣れた道で日帰りコースである。
 高野山へ結願報告と言うよりも高野山の金剛峰寺に報告と言い換えた方が正鵠を得ているかも知れん。
 
 高野山とは和歌山県北東部に位置する標高1,000m級の山々の八葉の峰(今来峰・宝珠峰・鉢伏山・弁天岳・姑射山・転軸山・楊柳山・摩尼山)の総称であり、高野山と言う山は無い。8つの峰々に囲まれているその盆地は『蓮の花が開いたような』と形容されており、仏教の聖地としては「八葉蓮台」という大変良い場所であるとされており現在その盆地には117もの寺院が点在する日本仏教の聖地と為っている。
 およそ1200年前の弘仁七年(816年)に嵯峨天皇より高野山の地を賜り弘法大師(空海)によって開かれ現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。その中心が金剛峰寺である。
 当寺はは明治2年に豊臣秀吉ゆかりの寺院である★青巖寺と興山寺とを合併し総本山金剛峯寺として現在に至っている。また世界文化遺産の一部として登録されている。
 
 ★青巌寺:青巖寺(剃髪寺)は秀吉が文禄二年(1593年)に豊臣秀吉が母公の菩提寺として建立したもので、豊臣秀次が自刃した場所としても知られている。
 
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                  一の口という奥の院への入り口
 弘法大師様が今現在も入定(生死を超えて人々を救うための修行)をしておられる「奥の院」と一の橋から奥の院までの参道には数々の戦国大名や歴史上の人物の墓がならんでおり高野山最大のみどころです。
 
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 入り口の左側にある手水場で漱ぎ身を清め奥ノ院に向かう・・・

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 奥の院までの参道には巨大杉、檜立ち並び鬱蒼としている。両側には名だたる大藩、武将の墓所が並ぶ、江戸時代の藩の半分の墓所が在るそうだ。
 
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                  豊  臣  家  の  墓 所
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                  織 田 信 長 公 の 墓 所
 
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                  加 賀 藩 前 田 利 家 の 墓

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実際に高野山にも足を運んだ上杉謙信公の霊屋は、豪華な霊廟の建築で重要文化財に為っている。

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                  武 田 信 玄 ・ 勝 頼 の 墓

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                  仙 台 藩 伊 達 家 墓 所

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                  石 田 三 成 の 墓 所
             ひげ爺好みの武将の墓所を掲載(順不同)
 何故高野山には武将・藩の墓所が多くあるのか?
第一に挙げられるのが、高野山という寺社の集う領域が、浄土であるという一種の信仰が存在していたことが第一に挙げられよう。著名な武将の墓所を高野山に作ることによってそれらの人物の成仏を願ったということが挙げられる。
 もう一つが、高野山の側の都合、思惑があったものであるということが考えられます。
平安時代以降荘園などの経済的基盤が優位であった有名仏閣も戦国時代になると、戦国大名などによる荘園侵略が横行し経済的に危機を迎えます。それに対応すべく高野山の各寺院は、各地の有力な武士(戦国大名や武将など)と師檀関係や宿坊契約を結び寺領の保全を図ろうとたのが第二の理由であるとの見方がある。(知恵袋参考)
 
 凡そ20万基もあると云われる墓所を過ぎると愈々奥ノ院の一郭、★御供所(ごくうしょ、ごくしょ、ごごしょ)にたどり着く。
★御供所 - 寺社に属して御供を調える場所(建物)
 
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                  御  供  所  正  面
 御供所(ごくしょ)は、御廟で入定しているとされる弘法大師の食事を作っている場所です。
維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。
毎朝、維那(ゆいな)が御供所で食事を作り、まず嘗味地蔵(あじみじぞう)に供えて味見と毒見をしてもらってから、弘法大師御廟に運びます。 大凡1200年続く奥ノ院の行事である。
 
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                  嘗 味 地 蔵(あじみじぞう)
食事のお供えは、生身供(しょうじんぐ)といい、毎日6時と10時30分の2回行われます。  
 
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                   御  供  所 側  面
 納経所も兼ねている。奥之院への奉納もここで取り次ぎして貰える。
 
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                   護       摩       堂
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                   護    摩    堂 一 部

 護摩堂の左側に水向地蔵が並ぶ・・・
 
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 水向地蔵:玉川の清流を背にして地蔵菩薩や不動明王、観音菩薩が並んでおり、総称して水向地蔵と呼びます。 3回水掛祈願をしてから奥の院にお参りするのが習わしだそうです。
 
 護摩堂の納経、水向地蔵祈願、撮影も終わり、御廟のある拝殿に向かおうとした時、芥子色の僧衣を着た可也年配の僧を先頭に若い二人の僧が長持ち状の箱を担いだ列が御廟の方から帰ってきた。芥子色衣の僧が維那(ゆ いな)さんで10時30分の生身供(しょうじんぐ)の儀式が終わった帰りだな・・・と合点がいった。
 
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                  奥の院大師廟にお供えする『御膳』の列
 生身供(しょうじんぐ)の儀式を終えた維那(ゆ いな)さん一行 (10月16日11時16分撮影)
 
 「私がかって高野山で聞いたところでは、維那さんは廟所の中にいる空海の模様をその法弟や息子にさえ他言せず、代々の維那で他言した人はおらず、そのために空海が生前の姿のままで凝然として座っているのか、単に木像があるのか、それともそれらが一切なく、ただ壁と板敷だけの神聖空間があって、二度の食事の膳をささげたり、ひいたりしているのか、その辺りのことは維那をつとめた人以外は、一山の誰もが知らないと言うのである。 「知る必要がないんでもの」 と笑って私の質問を避けた若い僧もあり、その避け方の明るさが印象的であった。」
                            『空海の背景・下』 著著:司馬遼太郎の一説より  

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 樹間の奥が大師廟;此処より奥『禁煙、撮影禁止、飲食禁止』の白表札 。因ってこの先の写真は無い。
 
 太子廟に詣で「四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅」の無事に結願を済ませた報告をして金剛峰寺主殿に向かう・・・
 
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                  金 剛 峰 寺 主 殿 へ の 道                  
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                  山     門     遠     望
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                  山 門 を額にして見る主殿の正面
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                  記   念   に   一   写
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                  金 剛 峰 寺 主 殿 (拝観可)
 1593年に豊臣秀吉が★木食応其(もくじきおうご)に命じて、母の菩提寺として建立させたのが青巌寺。この金剛峯寺はもともと青巌寺であり、明治2年に金剛峯寺と改称されている。そして高野山真言宗の総本山。本坊東西60m、南北70mの規模。
 ★ 木食応其(もくじきおうご):天文5年(1536年)- 慶長13年10月1日(1608年11月8日))は、安土桃山時代の真言宗の僧。字は深覚。近江国の出身。天正13年(1585年)豊臣秀吉が根来寺に攻め込んだ際(紀州征伐)には、客僧でありながら秀吉との和議に臨んだ。その結果、高野山の復興援助を得、秀吉は高野山に金堂や大塔を建立し、高野山の再興にあたった。(ウィキペディア参照)

 拝観は主殿の右側の庫裏から入場、拝観料は¥600。数多くある部屋には何れも著名な絵師(狩野元信、探幽、探斉)の手に因る豪華な襖絵がほどこされており、さながら絵画美術館のようである。但しすべて撮影禁止なので、写真でご紹介できないのは残念。現在の本坊は1863年に再興したものである。
 
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            豊臣秀次自刃の間(柳の間):撮影禁止なのに何故かこの1枚・・・
 
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                  蟠    龍    庭 (写真可)
石庭としては我国最大の庭で、雲海の中で雄雌一対の龍が、奥殿を守っているように表現されているそうだ・・・
 
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                  休       憩       所
 茶菓も戴ける、床面に太子像絵画・曼荼羅など多数・・・
 
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 回廊を歩くうちうら若い女性が裏山の祠に一心にお祈りしている後ろ姿に思わず一写・・・後で知ったが真然大徳廟であった。
 県指定 真然大徳廟:真然僧正は弘法大師の甥にあたり、高野山第二世として56年間従事。昭和63年に真然僧正の舎利器が出土して、ここが真然廟であることが明らかになった。なお、金剛峯寺内回廊から拝見することができる。
 
 金剛峰寺主殿の拝観を終え壇上伽藍に向かう、巡拝・散策・・・
壇上伽藍は、高野山の中核となるエリア。根本大塔、御影堂、金堂、東塔、西塔などの建築物が集まっている。管理しているのは総本山金剛峯寺。伽藍とは平たくいうと「僧侶が修行をする境内」のことだが、主要な建造物が集まった場所を指すときに使われる。
 
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                  根  本  大  塔  遠  望
金剛峰寺から壇上伽藍の東口から訪れると最初に見える根本大塔。右手前に大会堂 (だいえどう)。
 
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                  東          塔(とうとう)
 壇上伽藍の東に位置する東塔は1843年に大火で消失したが、1984年に「弘法大師入定1150年記念事業」で再建。
白河上皇の御願により大治2年(1127年)に創建。焼失再建を繰返し、現在の塔は昭和59年(1843年)に再建された6代目になる。
 
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                  手       水       場
 
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                  根    本    大    塔
 根本大塔(こんぽんだいとう)は空海がおられる奥之院と並んで、高野山の中で最も神聖な場所。空海が高野山を開創するにあたり、この塔を真言密教の根本道場とした。根本道場の高さ約48,5mある多宝塔である。多宝塔としては、日本で最初に建てられたものではあるが、再三の落雷で幾度となく焼失した記録がある。現在の建物は昭和12年(1937年)に再建されたものである。
 
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                  根 本 道 場 前で記念の一写
 
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                  御       影       堂
 御影堂(みえどう)は高野山で最も尊厳を尊ぶ御堂と記されている重要建造物のひとつです。弘法大師(空海)が在世時、弘法大師の持仏堂(じぶつどう)として建てられた御影堂は高野山の宝物(仏像や古文書など)を保管する場所でもあった。
 持仏堂だった御影堂が御影堂と呼ばれるようになった由来は真如親王(しんにょしんのう)によって描かれた弘法大師の御影を安置した事から御影堂と呼ばれるようになった。堂内外陣には十大弟子の肖像が大師の御影を守護するように掲げられている。
 
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                  金               堂
 金堂は高野山が開かれた当時は講堂と呼ばれていた。平安時代半ばから、高野山の総本堂としてとても重要な役割のある建物である。現在の金堂は7度目の再建で昭和7年(1932年)に完成。
 
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                  鐘               楼
 「高野四郎」と呼ばれる大鐘。日本で四番目に大きい鐘だったそうだ。
 
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                  不    動    堂 (国宝)
 勝上上人の建立と伝わる不動堂。 檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を持つ不動堂は鎌倉時代の書院造り様式。建久8年(1197年)ないしは建久9年(1198年)の建立。明治32(1899年)年に国宝に指定された。不動堂の歴史や使用目的など不明な点があり、謎の多き建物だと記されている。しかし、古来より内部に、運慶作の八大童子像と本尊不動明王が祀られていたことから、「不動堂」と呼ばれている。
 
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                    孔 雀 堂 ・ 准 胝 堂
 孔雀堂:後鳥羽上皇の命により建立された。 正治二年(1200年)に安置された本尊の孔雀明王像は快慶の作で、重要文化財に指定されている(霊宝館所蔵)。 孔雀堂の建物は昭和元年の大火で焼失、昭和58年(1983年)に再建されたものである。
 
 准胝堂:平安時代中期の天禄4年(973年)頃、准胝観音を本尊とするお堂がこの場所に建てられ、准胝堂となる、現在の准胝堂は明治16年(1883年)の再建。

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                  西               塔
 伽藍の西北隅に位置する多宝塔は壇上伽藍の根本大塔につぐ2番目に高い建物です。
仁和3年(887年)創建、五度の消失と再建を繰り返し、現存の建物は天保5年(1834年)に建立された。高さは27,27m、内部には金剛界大日如来(重要文化財)と胎蔵界四仏が安置されている。
 
 壇上伽藍の大方の塔・堂を参拝しおえて四国巡礼結願報告を終了することと致します。
 
 四国各所でお世話に為った人達に改めて謝意して八十八箇所を無事に巡拝出来た事を感謝しながら『般若心経』を唱え、納経を済ませて漸く『四国撮り歩記 霊場八十八ヶ所巡礼の旅』を完結出来たことを感得した。ヒゲ爺ブログ四国編にアクセスして戴いた皆様にも謝しながら閉じます。

               南 無 大 師 遍 照 金 剛 
                          合     掌
 


       
   

四国撮り歩記  霊場八十八ヶ所巡礼の旅:香川編 88番霊場

  
 第八十八番札所 大窪寺 に向かう 大凡 17km。
 
 大窪寺は四国霊場八十八ヶ所巡礼の最後を締め括る『結願の寺』である。当寺到着はpm3:30、途中大窪寺には到底pm5:00迄には間に合いそうに無いだろうと案じていたが長野氏にお会い出来、日の有る内に結願する事が出来たのは諸仏のご加護に違いあるまい。氏に感謝しつつお別れした。雨模様に為ったが時間はタップリゆっくりお参りが出来た。後は高野山への報告参りを残すのみである。
 
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           第八十番八札所 医王山 大窪寺 遍照金光院
 
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                  仁       王       門
 当寺の山門は平成2年(1990年)建立された西側から入る鉄筋造りの仁王門(写真上)と南側から石段を上がった所にある木造の二天門の2つがある。
 仁王門:仏寺の守護神として,2体の金剛力士を安置する楼門、左右に置かれ門の向かって右を密迹(みっしゃく)金剛、左を那羅延(ならえん)金剛という。

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                  仁   王   門   扁   額
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           「阿・吽」 仁    王    像
 左右に置かれ門の向かって右を密迹(みっしゃく)金剛、左を那羅延(ならえん)金剛という。
 
 山門を潜ると右手に手水場がある・・・手水で身を清め近くの太子堂を後回しにして先ず本堂に向かう・・・
 
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                  手       水       場
 
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                  本               堂
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                  本    堂    扁    額
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                  霊   場   結  願   所
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                  本   堂    礼    所
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 「薬」という文字の白の右側の点々が無い。願いがかなった暁には、点々を入れさせていただきますという思いが込められているそうだ。
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                  本    堂    内    陣
 黄金に輝く大窪寺の本尊:薬師如来が拝顔出来る。
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                  結 願 記 念 に 一  写
 
 本堂手前左側・・・
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                  此処にも  手 水 場が・・・
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                  納       経       所
 本堂手前右側・・・
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                 不 動 明 王 像 ・ 五大明王
 
 不動明王右横に阿弥陀堂・・・
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                 阿    弥    陀    堂
 
 本堂の南側正面に二天門がある・・・
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                 山         門 (二 天 門)
 
 太子堂に向かう・・・太子堂は仁王門の正面上にある。
 
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                 太       子       堂
 
 太子堂の左側には鐘楼堂・巨大な大師像、右側には寶杖堂・原爆の火などがある・・・
 
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                  鐘       楼       堂
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                  修    業    大    師 
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                  結願記念に奉納された太子像
 
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                  寶 杖 堂 と 原 爆 の 火
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          結願記念に奉納の金剛杖
 奉納された金剛杖は春分の日と8月20日に催される柴灯護摩供で焚き上げられます。
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 本堂・太子堂の参詣を終え境内の大方の散策も終わる。本堂参詣の際に納経所で御朱印を戴いていたので・・・
 
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                   本堂前の  納   経   所

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           御      朱      印
 
 
 無事参詣を終えて帰路に就く・・・・・・・合掌    10月10日午後4時20分 
 
 
 『略縁起』
 八十八ヶ所結願(けちがん)の霊場「大窪寺」。徳島県の県境に近い矢筈山(標高782m)の東側中腹にある。縁起によると、養老元年に行基菩薩がこの地を訪れた際に、霊夢を得て草庵を建て修行をしたと言われている。弘仁7年に、唐から帰国した弘法大師が、現在の奥の院近くの胎蔵ヶ峰という岩窟で、虚空蔵求聞持法を修法し堂宇を建立。等身大の薬師如来坐像を彫造し本尊として安置。また唐の恵果阿闍梨より授かった三国(印度、唐、日本)伝来の錫杖を納め四国八十八番札所 大窪寺と名づけ、結願寺と定めた。本堂西側にそそりたつ女体山には奥の院がある。
 女性の入山が、早くから認められ女人高野としても栄え、一時は百以上の堂宇を誇っていたが、しかし天正の兵火や明治33年の火災などで寺勢は苦難を繰り返した。しかし高松藩主の庇護や歴代住職の尽力により興隆。結願聖地の法灯を守り続けている。「同行二人」を共にした金剛杖などは、大師堂脇の寶杖堂(ほうじょうどう)へ奉納されます。これらは毎年春夏の★柴灯護摩供で供養されます。
 
★柴灯護摩供(さいとうごまく):野外で行う大規模な護摩法要のこと。伝統的な柴燈護摩は真言宗を開いた空海の孫弟子に当たる聖宝理源大師が初めて行ったといわれており、★醍醐寺をはじめとする 真言宗の当山派修験道の法流を継承する寺院で行われる事が多い。
 
★醍醐寺(だいごじ):真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基は理源大師聖宝(しょうぼう)である。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。豊臣秀吉による「醍醐の花見」と言えばご存知の方も多かろう。
 
 
★ 本尊:薬師如来 (伝 弘法大師作)     ★開基:行基菩薩
★ 本尊の真言:おん、こんころ、せんだり、まとぅぎ、そわか
 
 
★大窪寺で漸く結願を向かえ、巡拝を終えた喜びと同時に無事であった事をお大師様のお導きと感謝の気持ちが自然に沸いてきた。途中いろいろな方達のお接待も思い起こされ感謝感謝である。
 本来一度で巡拝すれば、自動車道を利用の場合大凡1,400kmと言われている、自宅より第一番札所 霊山寺迄の道程と第八十八番札所 大窪寺から自宅迄の大凡500kmを加えても1,900km。(実際6泊で巡回している)それ程過酷と思えないが、ヒゲ爺の場合4行程で巡拝。
①行程:自宅⇒明石大橋⇒淡路経由⇒第一番 霊山寺⇒第十七番札所 井戸寺⇒帰宅。
②行程:自宅⇒和歌山港⇒フェリー徳島⇒第十八番札所 恩山寺⇒(土佐に入る)⇒第三十九番札所 延光寺⇒R56⇒高知自動車道⇒徳島自動車道⇒淡路経明石大橋⇒帰宅。
③行程:自宅⇒明石大橋⇒淡路経由⇒松山自動車⇒第四十番札所 観自在寺⇒第六十三番札所 吉祥寺⇒松 山自動車道⇒淡路経由⇒帰宅。 
④行程:自宅⇒山陽自動車道⇒瀬戸中央自動車道(瀬戸大橋) ⇒第六十四番札所 前神寺⇒第八十八番札所 大窪寺⇒淡路経由で帰宅。
 何れも行程も連続休暇利用の為に自宅を夜中に出発、目的の札所に早朝に到着し参拝、納経時間終了迄巡拝し帰路は夜間と可也過酷な方法しか取れず、結局トータル4,000km以上を走行した計算になる。
 過酷なスケジュールにも関わらず事故も無く為し得たのも、諸仏のお導きの賜物と今でも信じている。
 南無大師遍照金剛!南無大師遍照金剛!
 
 
 ◎ 四国遍礼霊場記 ;1689年(元禄2年)に発刊された四国巡礼案内記・著作(僧 寂本 (じゃくほん ))(翻訳・村上 護)   (参考資料として))
 
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  行基菩薩の開基。空海が再興して密教振興の道場とした。本尊の薬師如来座像は高さ三尺で、空海作。阿弥陀堂は、もと如法堂であった。寒川郡の豪族・藤原元正【寒川郡司の家系で天文期あたりの当主に寒川元政がいる。ただし藤原姓ではなく讃岐公姓】が建てたものだ。鎮守権現と弁財天の堂がある。
 大師堂を国の守・吉家【未詳】が建立、領地を寄進した。鐘楼には高さ四尺五寸の鐘が下がっている。これらも吉家が寄進したものだ。多宝塔は寛文の初めごろまで残っていたが、倒れてしまった。昔の境内は、四十二宇と門・垣を備えた大伽藍であった。跡だけは、すべて残っている。
 奥の院は、本堂から十八町登った所にある岩窟だ。本尊は阿弥陀如来像と観音菩薩像。空海が求聞持修行をしたとき、阿伽水が足りなかったため、独鈷杵を使って岩の根を加持した。清水が迸り出た。この水は、どんな日照りでも涸れることがないという。また空海は生木を卒塔婆に仕立てた。文字も鮮やかに残っていたが、五十年前に野火が入ったため枯れ木となってしまった。本堂から五町東に弁財天像がある。寺の勢いが盛んであった頃、門と門の間が遠く隔たっていたという。東西南北とも十町に及び、今でも境界の印が残っているという。


 
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